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2008年1月24日木曜日

永井雄一郎

2007年12月10日、永井雄一郎は、FIFAクラブワールドカップ準々決勝浦和レッズVSセパハン戦で、日本人による大会初ゴールを記録しました。

こうした大事な試合での決定力のみならず、局面打開力にも優れ、突破してからのクロス、そしてスルーパスやミドルパスも巧みな永井雄一郎。
浦和レッズのブッフバルト前監督は、永井雄一郎のこうしたユーティリティー性を、かつて高く評価していました。

浦和レッズが、2007年に逃したJ1覇者の座を取り戻すためには、今シーズンも永井の活躍は不可欠ですね。

それでは、永井雄一郎を解明していくことにしましょう。



【永井雄一郎 基本情報】

生年月日: 1979年2月14日
国籍: 日本
出生地: 東京都新宿区
身長: 184cm
体重: 75kg
血液型: B型


【永井雄一郎の経歴】

永井雄一郎は、小学校から、高校まで三菱養和でプレーし、浦和レッズのトップチームに登りつめたのですから、まさしく浦和レッズ生え抜きの選手といえるでしょう。

永井雄一郎は1997年、高卒新人FWとして浦和レッズに入団しました。

同年4月12日、17時から行われたホーム駒場スタジアムでの開幕戦1stステージ 第1節(対横浜マリノス戦)において、永井雄一郎は鮮烈なプロデビューを飾りました。

当時、不動の日本代表センターバックだった井原正巳を華麗なフェイントでかわし、小村徳男を重戦車を思わせるドリブルで翻弄した一連のプレーは、浦和レッズの将来を支えるプレーヤーの誕生を印象付けるに十分なものでした。
永井雄一郎が与えた強烈なインパクトは、翌日のメディアに大きく取り上げられました。

また、永井雄一郎は、U-20日本代表として、マレーシアで開催されたワールドユースに出場し、チームのベスト8進出に大きく貢献しました。

1998年夏、永井雄一郎に転機が訪れます。

浦和レッズからドイツ・ブンデスリーガのカールスルーエSCに留学することになったのです。
しかし、カールスルーエSCへの留学は、必ずしも永井雄一郎に果実をもたらすものとはなりませんでした。
カールスルーエSCでは、長身を活かしたヘディングでの競り合いを求められたため、永井が本来得意としているドリブルのキレを失うことになったからです。

浦和レッズに戻った当初、永井雄一郎のかつてのドリブル突破の威力は、すっかり影を潜めていました。
しかし、浦和レッズでの試合を重ねるうちに、永井雄一郎のドリブルは徐々にそのキレをとりもどし、永井にレギュラー獲得をもたらします。

1999年は、永井雄一郎にとって忘れがたい年となりました。

フィリップ・トルシエ率いるU-20日本代表の主力FWとして、ナイジェリアで開催されたワールドユースに連続出場を果たしたのです。
永井雄一郎は、前回大会での出場経験を生かし、チームの準優勝に多大な貢献をしました。

2003年、永井雄一郎は、「ミスターレッズ」としてサポーターから長年にわたって愛され続けた福田正博から、背番号「9」を引き継ぎました。
この年、永井雄一郎は日本代表にも招集され、ソウル・ワールドカップ競技場で行われたアウェーの韓国戦(4月16日)で、代表初キャップを記録しました。
永井雄一郎は、この試合の終了間際、左サイドで、DFに囲まれながらドリブルで突破し、相手のクリアミスを誘うことにより、記念すべき代表初ゴールをあげたのです。
永井によるこの試合唯一のゴールにより、ジーコ・ジャパンは、宿敵・韓国をアウェーで撃破することができました。

2004年に入ると、永井雄一郎は、徹底した肉体改造を開始しました。
懸命の走りこみや筋肉トレーニングを継続し、下半身を厳しく鍛えあげようとしたのです。
それは、ギド・ブッフバルトが、就任した当初から、右サイドの攻撃の要として、永井雄一郎に大いなる期待を寄せていたことの証しでした。
ブッフバルト前監督は、永井の持つスピードをサイドでのアップダウンに生かし、浦和レッズの右サイドの攻守を活性化させようと意図していたわけです。

こうした永井雄一郎の肉体改造計画は、目に見える形で現れはじめました。
2004年8月21日、永井雄一郎は、浦和レッズのJ1セカンドステージ第2節対東京ヴェルディ1969戦において、約70メートルのドリブル突破を敢行し、相手選手3人をゴボウ抜きした末、派手にゴールネットを揺らしたのです。
永井雄一郎は同じ日、このスーパーゴールを含む3ゴールを挙げ、山瀬功治と共に、ハットトリックを達成しました。
これは、1試合で同一チームの2選手がハットトリックを達成するという、きわめて珍しい記録の誕生でした。

2007年、浦和レッズを飛躍的に進化させたギド・ブッフバルト監督が退任することになりました。
元日に行われた、天皇杯決勝。
ブッフバルトの浦和レッズでの最後の采配となったこの試合で、永井雄一郎は、後半42分、岡野雅行のアシストを受けてゴールを挙げ、チームを天皇杯連覇に導き、ギド・ブッフバルト監督の花道を飾ったのです。
永井雄一郎はまた、11月14日に行われたACL(アジア・チャンピオンズリーグ)決勝では、決勝点となるゴールを決め、大会MVPに選出されました。

さらに、FIFAクラブワールドカップでの活躍で、永井雄一郎の名は、世界中のサッカー関係者の記憶に留められることにもなったのです。

2008年の浦和レッズのFW陣は、高原直泰とエジミウソンの加入で、競争が一気に激化しています。

しかし、今シーズンも、大試合に強い永井雄一郎の存在は、浦和レッズにとって不可欠なものになることでしょう。

2008年1月10日木曜日

ロブソン・ポンテ (Robson Ponte)

浦和レッズ選手名鑑の第一回目は、2007年JリーグMVPに選ばれたロブソン・ポンテです。

浦和レッズが2006年にJリーグで優勝し、2007年にアジア・チャンピオンズリーグ(ACL)を制する偉業を成し遂げた過程で、常にチームの屋台骨を支えていた男、ロブソン・ポンテ。

さっそく、ポンテという人物を解明していきましょう。


【ロブソン・ポンテ基本情報】

生年月日: 1976年11月6日
国籍: ブラジルとイタリアの二重国籍 (イタリア移民の家系であるため)
出生地: ブラジル・サンパウロ
身長: 174cm
体重: 69kg


【ロブソン・ポンテの経歴】

ブラジル・サンパウロで生を受け、8歳で母親を、18歳で父親を亡くしています。

ポンテは1996年、地元のサッカークラブ・CAジュベントスでプロデビューを飾りました。
たちまちめきめきと頭角を表し、グアラニFCを経てドイツ・ブンデスリーガの強豪レバークーゼンへ移籍します。

しかし、レバークーゼン入団当初はあまり活躍できず、2001年にVfLヴォルフスブルクにレンタル移籍させられました。
才能あふれるロブソン・ポンテでも、やはり欧州スタイルのサッカーになじむには、それなりの時間がかかったのでしょう。

その後、VfLヴォルフスブルクでの活躍が認められ、2003年、ポンテはレバークーゼンへ復帰しました。
ポンテは2004年、レバークーゼンの主力としてUEFAチャンピオンズリーグに出場し、ドイツ代表シュナイダー、ブルガリア代表のベルバトフ、後に柏レイソルへ移籍するフランサらと共に、めざましい活躍を見せました。
レバークーゼンは、グループリーグでレアル・マドリードを3-0で下すなど、この年大旋風を巻き起こました。

そして、ついにロブソンポンテが浦和レッズに招聘されるときがきます。
浦和レッズとポンテの縁結びの神は、ドイツ・ブンデスリーガに太いパイプを持つ、浦和レッズ監督ギド・ブッフバルトでした。

2005年7月、ポンテは浦和レッズに加入します。
このシーズン、山瀬功治が横浜FMへの移籍したことで、中盤の選手が手薄になることに不安を感じた浦和レッズ首脳陣は、ポンテ獲得を切望したわけです。

ポンテの浦和レッズでのデビューは鮮やかでした。
ポンテは、2005年8月20日のFC東京戦でJリーグ公式戦に初出場し、1ゴール1アシストという見事なデビューを飾りました。

ポンテの活躍は、浦和レッズをJリーグ制覇(2006年)に導き、さらにAFCチャンピオンズリーグ(2007年)での浦和レッズの優勝をももたらしました。
アジア・チャンピオンズリーグでは、5得点を挙げて得点王に輝き、その得点感覚の鋭さをまざまざと見せつけたのです。
加えて、Jリーグにおいては7得点12アシストの活躍で、2007年JリーグMVPに選出されたのは記憶に新しいところです。

残念なことに、ポンテは、2007年12月1日の横浜FC戦(Jリーグ最終戦)において、全治6ヶ月の右膝前十字靭帯断裂の重症を負いました。
浦和レッズが優勝を逃したこの試合で、ベンチに下がった後のポンテが、膝をアイシングしながら、悲しげに戦況を見つめている姿が、とても印象的でした。
ポンテの近況ですが、12月14日には膝の手術が無事完了し、順調にリハビリ治療が進んでいるとのことです。

陽気なラテン気質と、ブンデスリーガで培った精神的・肉体的な強さを併せ持ったロブソン・ポンテ。
来るべきシーズン、ポンテは浦和レッズの重鎮として、Jリーグ制覇とアジア・チャンピオンズリーグ連覇のために、獅子奮迅の活躍を見せてくれることでしょう。